玉林寺について

開基香林和尚

一、臨江山 玉林寺の創建

 玉林寺(以下当山と記載する)は、禅宗の臨済宗南禅寺派の末にて、嘉吉二年四月(一四四二年)南禅寺一三九世住持香林宗簡和尚によって開基されている。香林和尚による創建については当山に”当山開基香林和尚大禅師”と位牌が現存していることや、江戸時代に書かれた古文書に明記されていることから明らかである。

 香林和尚は永享八年(一四三六年)に大徳寺から南禅寺住職に就れた方で、体調不良により約一年で退任された。宝徳二年(一四五〇年)の権力者であった山名宗全のを得て、南禅寺塔頭寺院の眞乘院を創建された。この時後花園天皇より綸旨を賜っている。晩年は、眞乗院でされていたが、享徳二年(一四五三年)にいます。

 香林和尚は、板宿にあります”すずめのお宿”で有名な禅昌寺のであった月庵和尚の弟子で、禅昌寺の塔頭寺院伝松庵を創建されており、当山は、その頃播磨國 明石郡垂水村の内東垂水村字川西(海神社の東隣)の地に創建されている。明治十二年明石郡役所に届けられていた当山の規模は次のようであった。

一、本尊 釈迦牟尼仏

二、堂宇 桁行 十三間 梁行 七間(約九十坪)

三、境内地 四〇七坪 官有地第四種

四、檀信徒 約八十人

五、納屋 桁行 九間 梁行 二間半(約七十三坪)

その他、境外に相当数の田畑を所有していた。


阿古無地蔵尊    (あごなし地蔵)

下記のボタンをクリックするとあごなし地蔵がわかります。

二、戦国時代の玉林寺

 当山が創建された嘉吉二年(一四四二年)は、そのに嘉吉の乱が起こり、播磨が戦場となった。

 この戦乱は、播磨の国赤松満が 足利六代将軍義教を謀殺したことから始まり、幕府の赤松追討軍が播磨に攻め入って、赤松一党が滅亡したことで終わるが、この後山陰の山名氏と四国の細川氏との間で争いが起こり、応仁元年(一四六七年)から天下を二分して争った応仁の乱が始まった。

 天政五年(一五七七年)織田信長は、毛利一党を滅ぼし、全国を統一するため、中国征伐を始めた。そして、羽柴秀吉軍を先鋒として播磨に攻め入ってきた。この間の歴史を調べると、垂水村付近で激しい戦闘があったとは記載されていないが、東播磨での戦闘余波で、きっと当山も被害に蒙っていたに違いないと思われる。

 この時代の当山の記録には、全く残されていないし、近隣各寺院にもこの時代の記録は残っていない。

 なお、明石郷土史で有名な黒田義隆氏によると、「秀吉軍の三木城攻略戦の際、毛利から三木城の別所氏に食料等の援助が行われており、これは船上城(明石川の右岸海岸寄り)付近を通って送られていた。」とのことである。


三、江戸時代の玉林寺

慶長八年(一六〇三年)徳川家康が征夷大将軍となり徳川幕府が開かれた。この当時播州姫路城主であった池田輝政公も位牌が当山に祀られている。

 池田輝政公は、慶長十八年(一六一三年)に死去しており、位牌の裏には備前岡山城主と刻まれている。この位牌には、玉林渡しとも記載されているので、明らかに池田氏の子孫が当山に回向を依頼したものと思われます。

 池田輝政公は、関ヶ原の戦い後、慶長五年(千六百年)に播磨国五十二万石の姫路城主となり、同八年(一六〇三年)には、次男の忠継が備前岡山二十八万石、三男忠雄が淡路 六万三千石を領していたので、西国の百万石大守と言われていた。

大観文珠和尚の揮毫

姫路城主 池田輝政公の位牌

国清院殿正三品泰叟玄高大居士 神儀

次に、当山にある古い位牌の中に年代不詳の位牌が 二基あり、それには前住二世雪庭立和尚と前住当山奇峯珍和尚と名前が刻まれている。当山に残っている祠堂帳の中の当山歴代記(天保十三年記録、一八四二年)によれば雪庭和尚は、二世住職とされており、嗣法年月日共に不詳であるが、寛永年中は、徳川三代将軍家光の時代で、幕府の基礎が固まった時代であった。

 奇峯和尚は、三世住職で雪庭和尚の子息であるが嗣法年月日共不詳となっている。

 次に、当山に残っていて記録があるのが、正徳元年(一七一一年)に亡くなられた四世住職雲漢衆和尚の位牌である。雲漢和尚は、奇峯和尚の弟子で当村の人と記録にある。この年は、六代将軍家の時代で新井・白石の改革派が活躍していた。

 これより約五十年前、寛文三年(一六六三年)幕府は、キリシタン禁制の布令を出した。そして、各藩に命じて宗門改帳を作らせ、あらゆる階層の者をいずれかの檀那寺院に帰属させる寺壇制度を確立した。当山にある天保十三年作成の過去帳で一番古く亡くなられた方は。延宝八年(一六八〇年)であった。

 徳川八代将軍吉宗の時代、享保四年(一七一九年)に五世寂室活和尚が亡くなられている、雲漢和尚の弟子でこの方も当村の人と記録に残っている。

 また、板宿の禅昌寺に残っている記録の中で延享三年(一七四六年)の南禅寺 末寺寺院帳によると、禅昌寺末寺として、東垂水村の玉林庵、西垂水村の青木庵、洞養庵があったと記録にあります。

 当山にも宝暦八年(一七五八年)に亡くなられた前住当庵六世燈外燈和尚の位牌もあることから、当時も玉林庵であったことが分かった。燈外和尚は、大蔵院(明石市大蔵町)の大解和尚の子息であった。また、播磨の郷土史で有名な「播磨鑑」は、宝暦十二年(一七六二年)に発行されており、ここにも玉林庵と記載があった。明治九年(一七七二年)七世仙州忍和尚が亡くなられた。燈外和尚の子息であったと記録がある。

 この年は、徳川十代将軍家治の時代で、田沼意次が老中に就任している。江戸大火、京都台風、九州津波など大荒れの年で十一月に安永元年に改元された。当山に現存するその当時のもは上記の写真にあります臨江山の掲額は、天保元年頃(一八三〇年)に南禅寺の高僧であった大観文宗和尚の揮毫されたものである。

 大観和尚は、名和二年(一七六五年)美濃で生まれ、十六歳で駿河の海蔵寺の住職になり、文政三年五十五歳で南禅寺の幹事に就任された。荒れ果てた南禅の建物の修理や、僧堂に新しい風を送り込んだかたとして有名である。

 この大観和尚の掲や天保四年(一八三三年)に亡くなられた当山中興八世大霊律和尚の位牌から推察すると、天保の時代に入り当山は、前途の明治十二年の記録にある規模に再興されたのは明らかである。 


玉林寺境に建てられた垂水小学校(明治四十三年)《松下氏提供》

四、明治・大正時代の玉林寺

 明治六年(一八七三年)三月大政官の学制布告により、垂水村に六つの学校が設立された。その中には、東垂水村の当山に設けられた垂水学校(生徒数約十一人)と西垂水村洞養寺に設けられた徹道学校があった。

 明治十年(一八七七年)垂水学校と徹道学校の二校は合併され、垂水小学校となり、玉林寺に設置された。場所は、海神社の東隣であった。その後まもなく明治十四年(一八八一年)にその当時住職だった九世月和尚がなくなっている。垂水小学校百周年記念誌(一九七三年)によると次の通り記載されている。

 「明治十七年には、玉林寺にあった垂水学校が洞養寺に移転し、翌十八年に再び玉林寺戻っていることからこの時、当山のに改築等の事情があったものと思われる。明治二十二年、市町村製施行により、明石郡垂水村となり、東垂水村と西垂水村は大字になった。明治二十四年頃から児童数が増加し、明治二十六年高等科を併設して垂水尋常高等小学校となる。」

月江和尚が亡くなってからも小学校は、そのまま当山で授業を続けていたが、高等科を併設してから、生徒数が増加し校舎が非常に狭くなっていた。そこで校舎新築が計画され、明治三十三年(一九〇〇年)当山の境内にが新築されることとなった。

 この時、当山と墓地の移転問題が出た。このままでは、当山の 廃寺につながるとして、当時当山の信者であったの旅館萬亀楼の主人松下萬亀氏や東垂水村の有志の方々が奔走して、現在の場所に御本尊や位牌を安置する本堂を建築されたのである。あくまで本堂移築という形で許可を申請し、明治三十四年に許可がおり、本堂が移築された。松下氏は、自分の所有地を提供され当山の本堂を移転したのにも関わらず、この時の当山の維持費用として、数反の田畑を寄付されている。このような篤志の方々のお力で当山は、住職不在のまま残されたのであった。また、墓地は、現在の垂水年金会館付近の海岸よりに共同墓地として移設された。なお、この共同墓地は、その後明治末期に鉄道の北にある小字這上りの継孝院の横に移転されている。それから、大正六年に禅昌寺から尼僧が住職としてこられるまで当山は三十六年間住職不在のままとなっていた。もちろん近隣の他寺住職が兼務で住職されていたが、東垂水村の檀信徒の、次々と他寺や他宗教に変わっていったと言われている。

 大正六年(一九一七年)当山にようやく尼僧の渡辺證宗和尚が、住職として着任されることとなった。よって證宗和尚は十世住職で第二の 中興の師として位牌に功績が刻まれている。この後大正十三年(一九二四年)垂水尋常高等小学校は、現在の地に新築移転された。

また、大正年間発行の明石西国巡拝案内図によると、当山は明石西国八十八番ヶ所の七十七番札所として記録されている。大正の中期以降には、多くの巡礼の人達が当山に参拝されていた。


本堂新築前の玉林寺

五 昭和時代の玉林寺

 昭和三年(一九二八年)垂水村が明石郡垂水町となり、昭和十六年(一九四一年)神戸市に編入されて、須磨区垂水町となった。当山では昭和十五年(一九四〇年)に證宗和尚がその後、沢村宗慎和尚が第十一世住職に着任されました。

 垂水は、幸いにも太平洋戦争中米軍の大空襲にも遭遇せず、昭和二十一年(一九四六年)須磨区から独立して垂水区となった。昭和三十四年(一九五九年)玉林寺裏の国鉄垂水駅(JR)の高架工事が始まった。

 当山では、昭和四十四年(一九六九年)宗慎和尚が不慮の事故で亡くなられ、後任の住職はなかなか決まらず、住職不在の状態が続き昭和五十六年(一九八一年)前住職の中村宗幸和尚が、大徳山内の興臨院から当山の第十二世に着任されました。


六 平成時代の玉林寺

 平成五年四月(一九九三年)築後九十三年経った本堂が、永年の風雪に耐えきれず老朽化していたので、本堂再建の発議があり、世話方総代会で本堂再建が決まり、檀信徒の方々に趣意書を持って浄財の寄進を働きかけた。

 平成五年秋に着工し、平成六年なつに完成予定のところ工事が遅れ、平成七年一月七日の阪神淡路大震災に見舞われてしまいましたが幸いにも屋根瓦が脱落した外は甚大な被害もまのがれ、平成七年秋には、一部の工事を残して冷暖房完備の立派な本堂が完成することができました。

 平成五年四月 玉林寺本堂建築 建設委員会氏名

前住職   中村 宗幸                     (※敬称省略)

建設委員  中村 順造・青木 徳蔵・高田 美代治・亀岡 滋夫

      福田 雅樹・梶原 博

 本堂が建って約十五年に前住職宗幸和尚が病にかかり、平成二十五年一月十一日に亡くなりました。宗幸和尚も荒れ果てた当山に着任され新たな風そして本堂再建をされた敬意で位牌には”中興開山”として刻まれています。その後現住職宗基が第十三世住職として着任した。当時二〇代住職として檀信徒強化に全力に取り組んだ。

 今回、ホームページを開設し地域の皆様に少しでも玉林寺の歴史に触れていただき関心を持っていただければ幸いだと思っております。約五百七十年の歴史を引き続き守っていく所存でございます。今まで苦難の連続を乗り越えられた先人の方々に敬意を表す次第でございます。